半纏・法被、幟・暖簾、手ぬぐい、祭り用品など、別注染物(オーダーメイド)承ります。加賀屋久治/かがやきゅうじ(吉田織物株式会社)

加賀屋久治の歴史

  • HOME »
  • 加賀屋久治の歴史

加賀屋 久治(かがや きゅうじ)の由来

加賀屋久治 焼き印初代久治は、江戸時代末期に加賀国(石川県)をルーツに越後国吉田村(現新潟県燕市)に流れ着いたといわれています。

当時吉田村は豪農今井家が隆盛を誇っており、信濃川支流の西川の水運を利用して米を流通させていました。
初代久治は職を求めて今井家に身を寄せ、境遇ゆえに粉骨砕身働いたといわれております。

久治が三代続いたのち久三郎、久平、謙吉、謙一、現専務取締役の久太と続き、久平の時代には山本五十六元帥に知己を得て昭和11年(1936年)に帝国海軍へ衛生材料ガーゼを納入するための大規模な織物工場を創業しました。
それが現在の吉田織物株式会社の成り立ちです。

明治の時代に入り、名字を得ることとなり現在に至るまで齋藤姓を名乗っておりますが、それまでは加賀国から出た久治であることから『加久』と呼ばれ、当家の屋号となっております。

今でこそ厨房・食品用の繊維製品専門店としての性格が強いものの、会社設立時は衛生材料の晒やガーゼ布のほか、手ぬぐいや半天など染め物の別注加工品も多く承っておりました。

別注加工品やオーダーメイド品向けの当ホームページの屋号を、社名と異なる『加賀屋久治』といたしましたのは、設立から80期を迎える当社が初心にかえり、これまでのルーツを名にあらわすことで、先人から学び、新たな価値をお客様へ提供したいという思いを込めております。

吉田織物の歴史と吉田晒

吉田町(現:燕市)は、新潟平野のほぼ中央、越後一宮弥彦神社のお膝元にあります。古くから米、晒木綿の産地でした。江戸時代から「繊維産業」、とりわけ「白木綿」は吉田町の主要産業として栄え、「明治」 「大正」 「昭和」と引き継がれました。

五代目「齋藤久平」吉田織物株式会社は、五代目「齋藤久平」が近衛歩兵第2連隊退役後、大日本帝国海軍「山本五十六元帥」に知己を得、工場制機械工業の様式を取り入れた大規模な綿織物製造工場を設立しました。
昭和11年9月5日のことです。

往時の吉田織物工場全景主に海軍御用として、衛生材料の「ガーゼ」の生産を開始しました。当時は、戦傷者のための衛生材料が必要とされました。原材料の「糸」は海軍から支給され、製品は衛生工廠( 兵器・弾薬などの軍需品を製造・修理した工場)へ納め、海軍への納品は、終戦まで続きました。

衛生材料製造の経験と、業務用厨房用品の集散地「燕市」に立地していることから、食品の安全と衛生を考えた製品づくりをモットーに、業務用厨房関係の繊維製品を取り扱っております。吉田晒 「吉田晒®」は、吉田織物株式会社のオリジナル商品です。「吉田晒®」の創業は天保年間といわれ、近隣の農村で作られていました。大正期に入り豊田式力織機の導入により工業化が進みました。

吉田晒「吉田晒 ®」は、20番手の綿糸で織った布を漂白乾燥します。単に「さらし」というとこの生地を指します。

激動の昭和の時期を経て、現在もなお小幅白木綿のトップブランドとして多くの皆様にご愛用をいただいております。

PAGETOP